8月モールス原稿
8月(August)31日ある。日本では旧暦8月を葉月と呼び、現在では8月の別名として用いる。
8月に行われる主なスポーツ 8月初旬から下旬、全国高等学校野球選手権大会、全国高等学校総合体育大会、全国中学校体育大会。8月と言えばお盆、祝日ではないものの、一般的に8月15日前後のお盆時期は、帰省のシーズンともなります。8月の花の代表は太陽のような「ひまわり」その他、朝顔やハスなどの夏の朝をすがすがしく彩ります。8月下旬ともなれば、キキョウや萩、オミナエシ、ワレモコウといった花も次々と咲き始め、季節の移ろいを感じ始める頃でもあります。
コロナ感染症の拡大が収まりません、基本的な感染予防を怠りなくつづけましょう。
それぞれに、思いがあるのですねー。私も、同じ町内のギタークラブの野呂さんの友達の人から、「あれは誤診だよ」と怒って言われたことを思い出しました。それは、・・・。私は、福岡マラソンのために、毎日少しずつ自分自身のレベルをアップするために、練習を積み重ねています。今週の週末、10kmのタイムトライアルに挑戦できるように、暑さの中奮闘中です。そして9月のトライアルには21kmを走れる状態にまでにはならないとと思っています。筋肉と脳力は歳に関係なく進化するという学説を信じて頑張ります。
村上國夫さんの投稿を見て驚きました。添付資料にある『社会新報』の日付が1980年5月6日、野呂邦暢さんが心筋梗塞のために諫早市仲沖町の自宅で亡くなったのが翌日5月7日の未明だったからです。まだ42歳という若さでした。貴重な資料をありがとうございました。
村上さんがときどき野呂さんを見かけたという八天町にあった喫茶店「らんぶる」。私もときたま利用したことがあります。カウンター席のほかにテーブル席もあり、あまり時間のことを気にする必要のない落ち着いた雰囲気の店だったと記憶しています。
そして野呂さんにとっては、その店の名前からも特別の思い入れがあった場所のような気がしています。
1956年に諫早高校を卒業した野呂さんは、京都大学文学部の受験に失敗し、しばらくのあいだ浪人生活をしていたものの、家庭の事情で進学を断念、また諫早での就職もままならなかったため、その年の10月に上京します。そしていくつかの仕事を経たのちガソリンスタンドの店員になりました。そこでの月に2日あった休日の楽しみは、当時神田の神保町(じんぼうちょう)にあった名曲喫茶「らんぶる」で半日を過ごし、残りの時間で古本屋を軒並みまわることだったそうです。
そのときの「らんぶる」での過ごし方について、随筆のなかでは次のように書いています。「神保町の名曲喫茶〝らんぶる〟には備えつけの画集や詩集があった。月に二日の休日を私は〝らんぶる〟ですごした。そこで見つけた小野十三郎の分厚い詩集を半日がかりで読みふけった。ウェイトレスの厭がらせなど気にしなかった」と。
先日の市来政文さんの投稿では、分会主催の文化講演会(1978年5月20日)のなかで野呂邦暢さんが、彼の叔父さんのことについても話していたとのことでした。電電公社に勤めていたというこの叔父さんは、野呂さんの人生に大きな影響を与えた人物のひとりだと言われていますが、私は、この叔父さんが「長崎無線電報局にも在籍していたことがあるのではないか」と推測しています。
野呂さんは1937年9月に長崎市岩川町で生まれましたが、1945年春の父親の応召にともなって、母親の実家がある諫早市城見町に疎開します。そこには野呂さんの祖母とこの叔父さん(母親の弟)が住んでいました。そして同年8月9日の原爆投下により長崎市内の実家が焼失したため、戦後も一時期を除いて諫早市内の城見町、厚生町、仲沖町などに住み続けました。野呂さんは、ひとまわり年上のこの叔父さんから読書、音楽、絵画などを楽しむ手ほどきを受けたそうです。
野呂さんの短篇小説「歯」(『群像』1976年1月号に掲載)のなかに、長崎無線電報局を想起させる次のような一節が出てきます。「子供の頃のことである。男は三日か五日のわりで夜勤をつとめる兄のために弁当を運んだ。職場である無線局は郊外の山裾にあり、そこへ行くには墓地のある丘を越えなければならなかった」。主人公の「男」は野呂さんを、「兄」はこの叔父さんをモデルにしているのではないかと思います。
ちなみにNTT長崎無線電報サービスセンタ編集委員会編『長崎無線91年のあゆみ』(1999年刊)の巻末にある「社員名簿」にも、この叔父さんと思われる人の名前が載っています。なお野呂さんはある随筆のなかで、1962年の秋に「私は熊本に転勤していた叔父の家を訪ねた」とも書いています。
野呂さんのことを私も思い出した。無線局での講演会に出席し、とつとつとした野呂さんの話を聴いてました。講演のあと書籍の販売があり、2冊を購入した。「草のつるぎ」の表紙ウラに「村上国夫様 草のつるぎ 野呂邦暢」と万年筆で署名、「諫早菖蒲日記」は筆で「諫早菖蒲日記 野呂邦暢」と記した名前の下に落款、次のページが中表紙でそのウラに私の名前を万年筆で丁寧に書き込んである。どんなやり取りをしたか、覚えていない。
竹の下のバス亭から本明川の方向へ入ったところに「らんぶる」という喫茶店がありました。ドアを開けると左手にカウンター席が7席ほど奥へ並んでいて、その中央よりひとつほど奥の席に、野呂さんが座っていた。何をされていたか、もう忘れてますが、何度かその姿をお見かけしました。添付したのは、社会新報(1980.5.6)掲載の野呂さんの随想です。野呂さんのやさしさが読み取れます。
没後10年の記念講演会には下条友喜さんと一緒に聞きに行きました。丸山健二さんは「自立の文学」と題し、仙台電波でのモールス通信の練習を引き合いに、モールス通信は手崩れしたら基本動作に戻る、小説も同じ、と野呂さんの弱さを指摘されていました(私にはそう聞こえた)。またあの風体から話の冒頭で「山口組ではありません」と言って笑いを取っていました。因みにいま諫早美術・歴史館で「諫早菖蒲日記」を使った諫早藩(主人公志津15歳)の歴史の読み解きが開催されています。 ※先ほどの記事で参加者を30年くらい・・と書きましたが勿論30人です。
元白雲寮の住人さんの野呂さんの話を見て、思い出しました。
当時、分会で「文化講演会」をやろうと、誰が話しにいったのか知りませんが、実現し、当時は局舎が改装中でプレハブ建ての2階会議室で開催しました。川上泰輔さんが手書きのポスターを描き掲示したくらいの周知でしたので、30年くらいの特に女性(家族)が多かったですね。枕では野呂さんの叔父さんが逓信省(電電公社?)勤務だったので、ときどき弁当を届けにきていたとか、大島文陽堂に聞いたら無線局の人が「世界」をよく買っているとかの話がありました。 講演の中身は丁度77年に「諫早菖蒲日記」が刊行されたばからだったので、江戸時代の風俗とかが中心だったと思います。正直言ってあんまり話は上手ではありませんでした。
講演後、本の販売があり、私も「諫早菖蒲日記」にサインをしてもらいました。後援会は終了後も交流会もなく、芥川賞受賞者なのにこれでいいのかな、と思いました。たしか写真も残っていないと思います。
先日久しぶりに、諫早が生んだ芥川賞作家・野呂邦暢さん(1937~1980年、1974年『草のつるぎ』で芥川賞)の評伝、中野章子著『彷徨と回帰~野呂邦暢の文学世界』(西日本新聞社、1995年刊)を、自分の諫早時代と重ね合わせながら読み返しました。
この本の巻末にある「野呂邦暢年譜」では、1978年5月20日に「諫早無線局にて講演」と書かれています。諫早無線局とはもちろん「長崎無線電報局」のことです。
また野呂邦暢さんは生前、仙台電波高校出身の芥川賞作家・丸山健二さん(1943年~、1966年『夏の流れ』で芥川賞)とも親交があり、没後10年の記念講演会(1990年5月13日、諫早文化会館)の講師は高樹のぶ子さんと丸山健二さんでした。
7月(july)31日ある。旧暦7月を文月と呼び、現在では新暦7月の別名としても用いる。文月の由来は7月7日の七夕に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝したりする風習があるからというのが定説となっている。7月の行事やイベント。7月1日山開き、7日七夕や花火大会、夏祭り、金魚すくい、盆踊り、お中元などなどがあります。7月の記念日、3日波の日、11日世界人口デー、海の記念日(7月の第3月曜日)、土用の丑の日(7月下旬)など。代表的な7月の花は は
す ひまわり アサガオ さるすべり なでしこ はいびすかす、きょうちくとうなど。まだ
まだコロナ対策を続けましょう。
結構難しい確率ですが、走れることになりました。ですが、膝の傷はひと月経つのにまだ完治しません。先生は月曜に抜糸しましょうと今日言われました。
1ヶ月のブランクを取り戻すためには、綿密な計画が必要ですが、5時間半でゴールできるように、来週から練習スタートです。なるべく楽に完走できるように走り込みます。11月13日がゴールです。
市来です。今日、山西節夫さんに会いました。「三軌展」という写真展の紹介がありました。山西さんの作品も展示されているそうです。お近くの方はぜひお出かけを。
長崎展(諫早市美術・歴史館)にて
6月12日(日)~19日(日)
※同写真展は東京、金沢、大阪、北海道で巡回展示。入場無料。
6月モールス原稿
6月(June)30日ある。旧暦では水無月という。12か月の中で6。月は祝祭日がありません。6月に結婚式を挙げる花嫁をジューンブライドと呼ぶ。衣替えの季節で夏至を迎え夏へと移り、梅雨の始まりのきせつでもあります。6月のはな アカカタバミ アカツメクサ アサザ アジサイ アケボノフウロ アスター アベリア アメリカンマリーゴールド アマゾンユリ アマリリス アヤメ アメリカフヨウ アメリカデイゴ アリウムギガンチウムなどなどがあります。コロナ対策を怠りなく行いましょう。
車の通らない松原の遊歩道を走っていましたが、おばちゃんの乗る自転車にぶつかられました。両手のひら、右肘、右膝の裂傷と打撲。毎日通院ししています。10日経ち残すは膝の傷だけとなりましたが、傷が塞がず、汁が止まっていません。今週には完治すると思っています。医者に走ってもいいですかねーと尋ねると、軽く「いいですよ!」傷が塞がっていない状態では、気力がいまいちですが、11月の福岡マラソンに出ようと思うと、走り始めないと間に合いません。明後日くらいからかな?
5月(May)31日ある。旧暦では皐月と言い、新暦では5月の別名として用いられる。
空にはこいのぼりが泳ぎ、皐月が咲く。春の後半にあたり、4月末から5月初めにかけてゴールデンウイークと呼ばれている。1日メーデー、3日憲法記念日、4日みどりの日、5日子供の日、8日母の日。5月の人気花のランキング1位から10位はバラ カーネション シャクヤク ボタン マリーゴールド アマリリス ラベンダー シャーマンアイリス ナデシコ ニオイパンマツリとなっています。 3密を避けるなどコロナ対策をわすれずにしましょう。
浜ちゃんもありませんねー
18日福岡マラソンにエントリー申請しました。7月1日が抽選発表です。当面、抽選に当たった時のために7月時点で30kmまでは走れるよう体づくりをして行きたいと思っています。なんでやるかなぁーとは思いますが・・・
チコちゃんじゃないですが、ぼーっと生きててもしょうがないかなーと、挑戦していきたいと思っています。
4月30日ある。旧暦では卯月と呼び、現在では4月の別名としてもちいる。4月は入学、入社など新たに始まる人生のスタートの月でもあります。1日エイプリールフール、7日世界保健デー、8日花祭り、29日昭和の日。4月の花々 桜 ツバキ シクラメン かすみそう すみれ 山吹 卯の花 チューリップ アマリリス つつじ パンジー モクレン ハナミズキ 一輪草 浦島草などなど。
手指消毒などコロナ対策をわすれずに行いましょう。
この歳になると、親しい人々の不幸が飛び込んできて人生の虚しさを感じます。その上、ばかプーチンとかコロナの連日の報道には気分が落ち込みますが、打ち破るべく、今日はOnlineの「Runner’s」月一の10kmタイムトライアルに挑戦をしました。前回の記録を5分短縮しました。元が遅すぎるから短縮できるのですが・・・。このスピードで走れば5時間でゴールできるかなーと希望が持てるところまで来ました。膝に悩む人々も多いと思いますが、私も注射をしたり、サポーターをはめての生活と悩んできましたが、何と、毎日欠かさないスクワットの筋トレと階段の上り下りで、膝の痛みを今日は全く感じませんでした。悩んでおられる方、是非とも筋トレを!
3月(march)31日ある。旧暦で弥生、現在でも新暦3月の別名として用いる。冬と春の境目の季節である。3日ひな祭り、8日国際婦人デー、13日東大寺2月堂お水取り、21日春分の日。3月の花々 ナノハナ、スイセン、スミレ、桜、梅、桃、ロウバイ、雪柳,モクレン、フクジュソウ、チュリップ、タンポポ、カタクリ、シバザクラ、クロッカス、ホトケノザ、パンジーなどなど、
コロナの終息が見えません、ワクチンを接種して、3密を避けるなど感染防止対策を続けましょう。
戦争ダメダメ 絶対ダメ
戦争反対集会に行ってきました。
2月(february)通常は28日、閏年は29日ある。旧暦では2月を如月という。新暦では2月の別名として用いる。
3日は節分、4日は立春、11日は建国記念の日、23日は天皇誕生日。季節は冬から春へと向いますが寒さの残る中、彩をそえてくれるはなばながあります。
代表的な2月の花は、フクジュソウ、スノードロップ、ウメ、ツバキ、ジンチョウゲ、ロウバイ、マンサク、クリスマスローズ、デンドロビウム、プリムラなどがあります。パンデミックの中、3密を避けるなど、コロナ対策をしっかりといたしましょう。